境界知能の生き方

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境界知能はどう生きるべきか

 先に述べると私は当事者ではない。ただ、私には小学生時代に絵本を読めない、高校生で初めて「かいけつゾロリ」を読み終える事ができた、高校時代の現代文で偏差値27を出したなどの実績がある。そのため、私にも境界知能の可能性はあるだろう。
私は境界知能の人が生きる上で、思い浮かぶ問題を主に2つ考えた。それは得られる情報の質が下がる事と人とのコミュニケーションの難しさだ。
一つ目の情報の質については読解力によるものと考えられる。これはベストセラーとなった「AIvs.教科書の読めないの子どもたち」でも語られている。この本は境界知能について述べられたものではないが、教科書を読めない子どもがいる事を明らかにし、多くの人に認知させた。この本では例えば、助動詞や接続詞を無視して単語だけを拾って読んでいる子どもが確認された。この場合、文章を読み違えることがある。最悪のケースでは真反対の意味に捉えてしまう。「しかし」「でない」「られる」などを読み飛ばすと意味の誤解が出るのは当然と言えよう。 二つ目はコミュニケーションの難しさだ。文の意味の理解が困難であれば会話は噛み合わない。話す側としては相手が理解しやすいように主語を明確にして話さなければならない。聞く側としては文を読むのと同様の力が求められる。単語だけを聞いているだけでは話を理解することはできないのだ。
これらを解決する順序を考えた。まずは境界知能、もしくは自分の読解力が低いことを知ることだ。これは時に自尊心を削ることもあるだろう。しかし、本を読めるつもり、会話ができているつもりでいるよりも、出来ないことを認知して改善するか受け入れるかを選択した方が長期的には当事者にとってメリットがあるだろう。例えば、重要な書類については他の人にも確認してもらう、文の理解度を上げることで詐欺師に騙されるリスクを下げるなどだ。
肝心な文の理解度を上げる部分に関しては、文を読む量を増やす、文を要約する、文を書くなどの方法をよく目にする。効果のほどは不明だが、何もしないよりは改善の余地ありだろう。 また、症状が重い人に改善を促すのは時に残酷である。これを受け入れるのも選択の一つだろう。 音声や動画で理解するという意見もあるが、私はこれには反対だ。これはただ、意味を理解できた気がするという状態を生むと考えるからだ。音声や動画は速度が遅く、理解しなくても勝手に再生される。この速度の遅さと再生が止まらないことが原因だ。理解しないまま、また次の動画を見てひたすらに時間を潰すことになるだろう。文章の理解度を上げるか受け入れて諦めるかだ。
結論 境界知能の人はまずそれを認知し、読書や執筆による改善を図るべきだ。また、重度の場合は、それを受け入れるのも手。動画や音声による情報収集には反対で、根本的な解決もしくは諦める方が良いと考える。なぜならそれらのメディアは理解不足に気づけずに時間を無駄にするからだ。